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荒木経惟写真全集15
死エレジー Death:Elegy

 今生きている人間にいつか必ず訪れるもの。それは死である。死ぬために生きているような人もいれば、懸命に生きて命を削って死ぬ人もいる。それは人それぞれの人生観の問題である。優劣を言うつもりはない。
 性は人間発生のためにはなくてはならない行為である。生を繋いでいく人間の営みと言う事もできるが、死ぬことを運命付けられた生命を新たに生み出す行為と考えれば、性と死は直結する。永遠無限の命は存在しない。生まれた以上、いつかは必ず死ぬのである。

 この「死エレジー」の冒頭で描写されているSEXには性の歓びというニュアンスを感じることはできない。どうしようもない人間の性本能が荒木さんによって写し取られている。その行為が佳境に入ったか、と思われたその瞬間、茣蓙に寝かされた顔をフレームアウトした老人の写真がくる。祭壇。荒木家告別式々場。弔問の人ひと人。あとがきにもあるように、これは荒木さんの父、長太郎氏の葬式なのである。
 すぐ次の頁には初めて若狭へ旅行した時の陽子さんの浴衣写真。全体に白いトーンでどこか異界を連想させる。この旅行で陽子さんは処女を喪失したとあとがきにある。性と死の融合。再び葬式。そして川の写真。若狭旅行の時、旅館から見えた風景なのだそうだが、葬式の写真に挟まれているだけに、三途の川をイメージする。

 ”死を連想する性の写真”がパラパラマンガのように連続してシャッターを切られ、描写されている。「コト」を写真で表現しようとする荒木さんの意図が見える。この一連の性を写した写真を見てもいわゆる「エロ」を感じないのはなぜだろうか。冒頭にある葬式のイメージの影響だろうか。いや、もっと人間の本質にかかわる事が作用しているように思えてならない。

 ヌード写真の真中に5頁にわたって一人の女の手記が写真として写されている。「学校の実験室の中でみるびんづめの新生児風」に生まれた彼女は、小さい頃男をイジメる子として育ち、高2の夏、「今まで洗ったことないところをかたいへちまでゴシゴシ洗われたみたい」なだけの初体験をする。そして、「去年の冬、妊娠した」。すぐ中絶しようと思い、男に手術代を請求した。「私があらかじめ妊娠の可能性を断っておいて、承知の上でやっておきながら私に妊娠させた。その不手ぎわに対する責めだと思った。」「男がなまじ私にやさしくしたりすると無精にイライラして腹が立」ち、「表面的なやさしさで自分の責任をつぐなうような気分を男に味わせるのがイヤだった」彼女は、その男を遠ざけた。いよいよ堕胎手術をする時が来て、「魚屋みたいに下がコンクリートで水びたし」の手術室にある「長さが頭から腰までしかなく、はるかかなたに両足をのせる台が2つあ」る合理的な手術台に乗せられる。「足首を皮のベルトでイヤというほどしめ」られた上で「何かの器具がさし入れられその時激痛が稲妻みたいに頭の方に走った」。こんな思いをしながら、彼女には「一生人殺しの汚名がついてまわる」ことになった。最後に「将来はカッコよく男を腹上死させて私も花をちらせてみたい。」と書き付けてこの手記は終わっている。読めば読むほどぞっとする。しかし、読まずにはいられなかった。
 よく「結婚と恋愛は別」ということが言われるが、「SEXと恋愛は別」なのだということもこの手記を読むと思い知る。彼女にとってSEXは快楽をむさぼるだけの存在でしかなく、そこに介在する男は自分とSEXをしたいと思っているなら誰でもいいのである。無論、その関係に愛などない。男女は愛し合っていなくてもお互いがやりたいと思えばSEXができてしまうのだ。そして、望まない妊娠をすれば、彼女のように「人殺し」になる。性と死は表裏一体で、意識していないとしても非常に近い存在なのだ。

 この巻は葬式のイメージ以外にも、生そのものが死である、という荒木さんの考えが反映された怖い写真集であった。

2000年3月8日記


 

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