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旅少女
荒木経惟
光文社 1996年12月10日発行
「こんなにも清純なアラーキー」と帯書きにある。たしかに清純な少女たちが画面一杯に登場している。しかし、わざわざ”清純”と断るということは、普段は相当不純な写真を撮っているということなのだろうか・・・。
ここに写っているのは、18歳の旅する少女たち9人の物語である。
「唐津のホームシック」と題された旅する純子さんの物語にはこんなエピソードが添えられている。
『荷物を持って階段を下りて、台所にいるママに「あたし、家出するわ」というと、ママは振り向きもしないで「いってらっしゃい」って言った。思わず「いってきます」と答えた。家出するときって、あいさつするんだっけ。なんせ初めてだから、わからない。駅へ行く途中で友だちに会った。「あ、純子、どこ行くの」「うん、ちょっと、家出」「うそー。ほんとー?じゃあねー」駅から、学校とは反対方向の列車に乗った。 生まれて初めて、迷子になった。こわかった。標識も何もないし、地図も持ってない。誰かに道をきこうと思っても、誰も歩いてない。迷子になってたのは、時間にすると1時間くらいだったけど、ほんとに長く感じた。小さな駅を見つけたときは、ちょっと泣きそうになった。次の列車まで2時間あったけど、もう一歩も動きたくなくて、ずっとベンチにすわってた。ひとりってこわい、って、初めて思った。でもベンチにすわってたら、だんだん冷静になってきて、気持ちよくなってきた。このこわい感じが、いいんだね。あんまりまわりに何もなくて、「じぶん」だけがくっきりとある、この感じがほしくて、家出したんだ、と思った。この感じを忘れなければ、生きていける、と思った。(そろそろ帰ろう)』 少女はひとりで旅をしてみて、初めて「じぶん」の存在を自覚する。普段家族や友だちと一緒にいるときには気が付かなかった”自分”という存在を再発見したのだ。集団の中にいると埋没してしまって、そのときその時をただなんとなく過ごしてしまう事が多い。自分を確かめるために旅をする。なんと青春しているんだろう。
この写真集の中で、少女たちは子供のようにはしゃぐ表情をしたり、大人の女のような物想う表情を見せる。18歳である。もう何でも自分でできるような気持ちでいる。でも現実には思うことの半分だってできるかどうかわからない。それは大人になっても変わらないのだが、少女はいつかできるようになると信じている。なんでも自分でできるようになる時、それが大人の女になったということなのかな?と考える。
無論、筆者の推測に過ぎないが、旅をする彼女たちの見せたいろいろな表情を見ていてそんなことを感じた。
「この本の写真は、JRグループ「青春18きっぷ」のポスターのために、3年間にわたって撮影したものです。」と奥付にある。筆者も大学生のころ、この青春18きっぷを使って和歌山や広島へ行ったことがある。ちょうど大学を卒業してこのきっぷを使うことのなくなったころ、このポスターを駅で見かけた事を覚えている。使いたいと思いながら使う時間の無くなった自分を思い、青春という名の付いたきっぷの意味を知った。
夜11:35東京発大垣行きの夜行列車は、夏休みの旅をする若者で一杯だった。なかなかたどり着かない目的地。うとうとするくらいしか眠れない硬い座席。あれからもう12年も経つのか、と想うと懐かしい。確かにあの頃、自分の可能性をいろいろと夢見ていたような気がする。夢は大人になって実現したのだろうか。夢はいつも現実と仲が悪い。
「旅の朝はねむい。でもがんばって早く起きて、列車に乗ってすげーえ遠くにいった。でもどこへ行ったか、ほとんど忘れてしまった。空とか花とかイイなーと想った。少女たちの顔とか姿態が忘れられない。少女と旅したんじゃなくて少女を旅したんだネ。9つのレンアイをしたんだ、楽しかったネー。また旅したいなー、愛しの少女と。 A」
荒木さんは少女たちの旅に付き添いながら、少女を旅したと語っている。それはそれは密度の濃い旅だったろう。写真にもあとがきにも、そんな気持ちがよく写っている。
青森を旅する佐知子サンの前を横切って、何にもない所に果てしなく真直ぐ伸びていく線路の写真がある。旅が人生の縮図なら、筆者もそんな線路を歩いてみたい、と思った。旅はいつも人をセンチメンタルにさせる。
『少女よ、旅に出なさい』by荒木経惟
2000年8月29日記
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