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■愛しのチロ

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愛しのチロ
荒木経惟
平凡社 1990年2月6日発行

 チロは猫である。いや、猫のはずである。姿は確かにまぎれもなく猫だ。しかし、この写真集を読むと本当に猫なのか?と思えてしまう時がある。

 「チロちゃんは春日部のおばあちゃんとこから生後4ヶ月の時にヨーコがもらってきた。チロちゃんのお母さんは捨て猫だったそーで、で、色情狂だったそー、で、すぐ孕んじゃって、最初のコは捨てたのだそーで、でも、またすぐ孕んじゃって、生れた2匹のうちの1匹をあまり可愛いんでもらってきちゃったのだ。」と彼女の出自について荒木さんが書いている。扉をめくると、左甚五郎の眠り猫を思わせるチロの写真。ソファの上で丸くなって眠っている眠そうに片目だけ開けたり、欠伸したり、洗濯籠に乗っかって「イー」したり。表情がすごく豊かである。

 「チロはAが猫嫌いであることをすぐに見抜いて、気に入られよーとコロリコロリと愛敬をふりまいた。とゆーよりも母ゆずりなのか媚態した。」そんなチロの様子に猫嫌いの荒木さんもコロッといってしまった。「Aはたちまちチロのトリコモナス、魅せられしキン魂。さっそくこのコロリコロリをネコロリコロリとネーミングした。」白地の身体にちょうど斑が頭の上にあるため、振分けた髪型に見えるチロ。その表情や行動の可愛さからすっかり荒木さんのお気に入りになってしまった。

 「外に出ると、まず伸びをして、バルコニーをちょっと散歩してモダンアート、手すりで曲芸して、隣の家の柿の木にとびうつってゆらゆら、屋根から屋根へ、雀をねらってる、猫ってやっぱりケモノなんだねぇ。」明るい日差しのなか、バルコニーを歩くチロ。影が歩いているようだ。伸びをしてごろごろ。そして、雀を部屋まで捕まえてきて高梨豊氏の写真集の上で食べている。「チロは雀をとるのが得意、それとヤモリ、蝉、ゴキブリ、蝶々、んでちゃんとエモノを見せにくる。」ヤモリをテーブルクロスまで追い詰め、もてあそんだ上で身体真っ二つに食べてしまった。荒木さんの青竹ふみがある畳の部屋でまんまる目に舌をペロリ。夜のバルコニーで荒木さんのストロボを受けて目が光る。夜遊びも大好きとか。

 「夜遊びが大好きなのはチロちゃんだけでなく、Aも。ピンポーン、ピンポーン(ドアチャイムの音)、ガチャ(カギの音)、ニャーとチロのおでむかえ。うれしいねェ、どんなに遅くなってもおでむかえしてくれる。んで、午前様のAはいつもチロと写真を撮りたがる。めいわくだニャーァ。」部屋のドアの前でポーズも決まった荒木さんの左腕にはバンザイしたまま逆さに抱えられたチロ。すごくイイ写真だ。原稿用紙に向かう荒木さんの肩の上に居たり、ソファネしながら荒木さんに「我輩は猫である」を読んでもらったり、お粥を食べさせてもらったり、一緒にソファネしたり・・・。家に居る時にはいつも一緒、という雰囲気がよく伝わってくる。チロと荒木さんの写真を撮ったのは、はっきりと明記されていないが、陽子さんに違いないと思う。家族で写真を撮りたいと思うとき、思ったその時点で撮られた写真はすべて「名作」となることを約束される。フレーミング、被写体の表情、そんなことにこだわりすぎるよりも「撮ろう」と思いシャッターを切ってみる、気がすむまで切りつづけてみるその”コト”がその”時”を写真に刻むことになってゆく。写真に写った荒木さんとチロ、そしてシャッターを切った陽子さんと、この写真には荒木さんの家族3人でいた”時間”が写っている。

 陽子さんが女子医大へ入院してしまった頃、この写真集は終わっている。陽子さんの著書「愛情旅行」におっちする姿、「東京行乞(とうきょうアッジェ)」の原稿用紙の上で寝っころがっているチロの表情も寂しげだ。

 あとがきの代わりに荒木さんの日記が巻末にある。「にちよーび、いまバルコニーで日光浴情、秋の変容する雲を眺め、ときどきチノン(チロ用カメラ)のシャッターをおしながら、この日記を書いているのだが、いつもだったら、お茶はいったわよーとヨーコがバルコニーに出てくる。こんな秋日和の中でヨーコとお茶飲みたいねェ、チロもいっしょに。」折角の秋日和の日曜日、陽子さん不在のまま時が過ぎていく。チロも出かけていていない。「Aはひとり暮らしをしたことがなかった。こんなに寂しいもんだとは知らなかった。ちなみにAは来年で50歳になる。いままで料理、洗濯、掃除やったことがなく、まったくダメ、ずーっと赤ちゃん、みーんなおふくろそしてヨーコにやってもらっていた。」そんな荒木さんが陽子さんのいない1ヶ月、家事で悪戦苦闘している様が目に浮かぶ。「チロも寂しいらしく屋根こえて遊びに行ってもすぐに帰ってきてしまう。泣き声がすごく哀しい。ひょいとAの胸の上にのった。チロちゃん、ママはやく帰ってくるといいねェ。チロとちょっとうとうとしたらしい。夢をみた。ヨーコとチロといっしょにどこだかの露天風呂に入っていた。目をさますと鱗雲。」荒木さんはチロという家族を新たに得たが、それも束の間、最愛の陽子さんを病気で失ってしまった。この写真集は娘の活発さ、利発さを喜ぶ両親が写真で綴ったチロのアルバムである。「センチメンタルな旅・冬の旅」のなかに写真があるが、陽子さんが旅立つ時、棺にこの「愛しのチロ」が入れられた。最愛の娘と大好きな夫が写っているこのアルバムを、陽子さんは天国で繰り返し眺めているに違いない。

 家族で居られる時間は延々と続くようで実は短い。その時間を記録する道具には写真が一番かもしれない。見た後にいつも残る余韻。この余韻のなかに写真の魅力のすべてが含まれている。

2000年6月20日記


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