
センチメンタルな旅・冬の旅
荒木経惟
新潮社 1991年2月25日発行
荒木さんの写真世界を俯瞰して一望する時、何度も読み直してしまう写真集に出会う。読者としての筆者の想いが荒木さんの表現にシンクロする時、何度も読まなくては、という気分になるのだろう。この写真集は、これからも荒木さんの写真集を語るとき5本の指に必ず入る一冊になると思われる。
陽子さんという存在は、荒木さんの写真には欠くことのできないものであった。愛する人であり、妻であり、最高のモデルであった。その陽子さんは42歳という若さで1990年1月27日に子宮肉腫という病気のため他界してしまった。題名のうち「センチメンタルな旅」は1971年の7月7日に結婚した陽子さんとの新婚旅行の道行きを撮影した写真であり、「冬の旅」は陽子さんの死への旅路を記録した写真である。
「センチメンタルな旅」の写真は、なんとも不思議な情感を漂わせている。新婚旅行のはずなのに、新婦である陽子さんの楽しそうな笑顔は一枚も写っていない。どこか「物思いに沈んだ表情」の陽子さんが”単々と”描写されている。柳川の旅館にある広い庭園で撮影に熱中する二人。飯沢耕太郎氏は、その中の石で出来た直方体の椅子に石棺を見、花に蝶が舞っているカットに”異界”を発見する。陽子さんは偶然にもこの”石棺”に座ったり寝そべったりしている。読者はこの元武家屋敷である柳川の旅館そのものに”死のイメージ”が色濃いことにだんだんと気付く。夜のSEX場面が描写されるが、これには、死の館であるこの旅館の中での、生への再生の儀式を表している、と読む。すでにこの時点で陽子さんの黄泉の国での出来事を写真にしていたのか、と荒木さんもあとからそう振り返る。新婚旅行でありながら、”センチメンタル”で、”死のイメージ”が色濃いこの「センチメンタルな旅」を引継ぎ、「冬の旅」が始まる。
1989年の8月、子宮筋腫といわれ、女子医大に陽子さんは入院する。手術した結果、子宮肉腫とわかり、助からないことを荒木さんは知らされる。
「本当にお世話になっています。あなたのやさしさが胸にしみわたるほどありがたくて、それを支えにしてこれからの治療もがんばっていけそうです。でも、こういうことになって、改めてあなたの素晴らしさを認識するなんて、おかしいものですね。人間はこういう状況にならないと物事が見えてこないのかもしれないな、などと思いました。今は、あなたが顔を見せてくれるだけでとても嬉しい。どうか身体に気をつけてね、私もがんばりますから!」
バルコニーのチロや毎日のなにげない光景に添えられた陽子さんの荒木さんへ宛てた手紙の一部である。陽子さんは荒木さんから病気のこと、助からないことを一切話されなかった。しかし、長年連れ添った二人である。言葉で言わなくてもすべてが伝わっていたであろう。わかった上での陽子さんの「がんばり」だとすれば、それは自分のためではない。他でもない荒木さんのためにがんばっているのだ。その心中は察するに余りある。
公園の滑り台で遊ぶ少女、晴れた空の太陽を隠す柳。そして雪が降り始め、季節は真冬へと向かってゆく。早稲田のAat Roomへと歩く道すがら、表紙にもなっている「黒猫を抱いた少女」の看板を見る。この看板は荒木さんが陽子さんに見立てて撮影している。キャプションという形で陽子さんの手紙や言葉がたびたび出てくるが、実際の陽子さんは、最初の手術をした直後の8月に雑炊を一緒に食べた写真を最後に出てこない。そして1月26日に容態が急変し、翌27日に亡くなった。励まそうと荒木さんが買ったこぶしの花が哀しい。陽子さんの遺体と一緒に三ノ輪の浄閑寺へと車で向かう。二人での最後のドライブとなってしまった。
翌日、哀しいくらい良い天気。いつものようにバルコニー写真を撮るが、陽子さんがまだ生きていたときとなにも変わらない風景がそこに写っている。世の中は荒木さんの哀しみをわかろう筈もない。何も変わらない冬の日の日常が過ぎていく。しかし、荒木さんの中では違う。もう陽子さんは生きていないのである。例えようのない大きな喪失感。空を仰ぐと飛行機雲。
通夜。告別式。そして焼き場。骨になってしまった陽子さんを抱いた荒木さんの気持ちを想像することは出来ない。骨になり、小さい骨壷に収まるくらいになってしまった陽子さん。その不可逆的な事実に呆然とするばかりだ。葬儀のあいだ、病床の陽子さんからプレゼントされた真っ赤なマフラーを首からかけていた荒木さん。死という運命へのささやかな抵抗だったのだろうか。
残酷にも葬儀が終わると何事もなかったかのように翌日から日常は再開する。また雪が降る。日付は2月になっていた。雪の積もったバルコニーをチロが跳ね回るシーンでこの写真集は終わっている。ここまで読んできて哀しみで心は打ち震えた。気が付けば目からは涙が溢れている。写真集を見て涙したのは生まれて初めてだった。写真には人の心を直接揺さぶるだけのエネルギーを込めることが可能なのだ、と思った。
1991年2月発行「波」という雑誌には、篠山紀信と荒木さんが、この写真集に関して対談をしている記事がある。「ウソとまこと、うまいへた」と題されたその文中では両者の撮っている写真の方向性も絡めて、この写真集について歯に衣着せず激論を交わしている。荒木さんは「写真は私小説でなければならない」という立場を取り、陽子さんの死という真実を写真家として受け止めようとした結果がこの写真集になった、と語る。一方篠山は、誰が見ても陽子さんの死ということしか伝わってこない写真集は荒木さんらしくなく、多義性を孕んでいるからこそ面白かった荒木さんの写真の良さが全然発揮されていないため、”やばい”と断ずる。
荒木「一回妻の死に出会えばそうなる。」 篠山「ならないよ。女房が死んだ奴なんていっぱいいるよ。」 荒木「でも何かを出した奴はいない。」 篠山「そんなもの出さなくていいんだよ。」 (中略)
荒木「虚実とかそういうのを超えちゃって、んなこと、ポンと忘れさせなきゃだめなんだよ。」 篠山「それで何を見ろって言うの。」 荒木「純粋に写真を見るんだよ。」 篠山「そうじゃないじゃないか。ここにあるのは単なる陽子さんの死にすぎないよ。彼女の死ということの悲しさが直截に伝わってくるだけじゃないか。」 荒木「それが写真なんだよ。」
篠山紀信は最後まで立場を変えようとしなかった。荒木さんの撮ったものは「陽子さんの死」だけ、であり、そんなことは他人には関係ないからダメだと本気になって食って掛かったのだ。しかし、篠山紀信は見誤っていた。荒木さんとは全く関係のない他人が見ても、この写真集ほど人の心を揺さぶるものはないのである。陽子さんに対する荒木さんの想い、荒木さんに対する陽子さんの想いが、「死」という動かしがたい運命を前にしてどうなってしまうのか、読者は途中で荒木さんに自分を投影したり、陽子さんに身を置き換えたりしながら、この物語に引き込まれていく。そんな写真集を篠山は作れるのだろうか。コマーシャル写真出身でテクニックが主体の篠山はそのような視点すら持ち合わせていないように思える。だからこそ私小説としての荒木さんの写真集をしっかり読むことができなかったのだろう。篠山はこの写真集を「お涙商売」と言い、荒木さんを激怒させた。この対談が元で、しばらくの間二人が絶交状態になったことは有名な話だ。
やはり写真には撮影者の情感が写っていなければいけないと思う。作者の情感が込められた物語を感じる写真のほうが、何度も”読み返す”ことができるだけ奥が深いというのは誉めすぎだろうか。
「きれい」「かわいい」だけが写真ではない。”単々と”過ぎ去っていく時間に視線を投げかける荒木さんの写真には考えさせられることが多い。日常の積み重ねがいつしか人生と名前を変えるのである。「自分はどう生きられるのだろうか」と考えずにはいられない。
2000年5月2日
|